「誠太郎、二度は言わんからよく聞いておけ」
箱館の高田屋嘉兵衛の屋敷に呼び出された誠太郎は、嘉兵衛にそう切り出された。
「海人のことはすべて忘れろ。海人の女のこともだ」
嘉兵衛の口調はまさに問答無用という厳しさで、誠太郎はひどく驚かされた。星辰丸が嵐に遭遇し、〝海人〟の娘、ナミに救われたことを、どうして嘉兵衛が知っているのか……?
だが、それは愚かな疑問だとすぐに気づいた。
誠太郎はあれ以来、ナミに心を奪われてしまった。他の商人、船乗りたちに会うたびに、海で起きた不思議な出来事について情報を集めた。やがて、誠太郎は船乗りたちの間に伝わる、ひとつの伝説について知ることになった。
──海人。
その名の通り、北の海で暮らす一族がいる。
だが、聞かされた話は様々だった。
魚よりも速く海を泳ぐ。
光も届かぬほどの深さに潜る。
海の底の園に暮らす。
否、人は目にできない秘密の島に住む。
否否、そもそも人ではない、海の精霊で、人の前に姿を現す時のみ、人の形をとるのだ……。
結局、その正体は誰も知らないのだ。
だが、出会った者は多い。
そして、皆、一様にそれを秘密にしていた。少なくとも、陸の者たちには決して明かさない。皆で口裏を合わせていたわけではなく、ひとりひとりの意思によるものだとわかった。
なぜなら、海人と出会った者たちは皆、誠太郎と同じく、荒れた海でその命を救われていたのだ。船乗りは海を敬い、恐れる。それと同じように海人を敬い、恐れていたのだ。誠太郎が話を聞き出すことができたのも、彼が船乗りであり、海人との出会いを仄めかしたからだった。
それでもある程度の話を聞き出すまでは並大抵の苦労ではなかった。そして、誠太郎が海人のことを聞き回っているということは、当然、商人、船乗りの間でも広まってしまったのだろう。北前船商人を代表する男、高田屋嘉兵衛の耳に入らぬはずがなかった。
「誠太郎、おまえが海人の娘に心奪われるのもよくわかる。わしも昔、海人の女に出会ったことがある」
嘉兵衛の言葉に誠太郎は驚きつつも、納得もしていた。彼は自ら船頭として北の海を開拓してきた男だ。様々な危険に遭遇することも多かっただろう。そして、海人と出会う機会もまた、いくらでもあったに違いない。
「海人は男も女も美しい。特に、女は、だ。だからおまえの気持ちは本当によくわかる。それでも、もう忘れるんだ」
──どうしてですか? と、誠太郎は問うた。
「人と海人は深く交わってはならんからだ。それが掟だ。人と海人の繋がりは、人が海に出て以来のものだ。だが、それは決して幸せなことばかりではなかったのだ。海人は最初、人を敵視していたという。長い時間を経て、ようやく良好な関係が築かれた。人が海で危機に遭えば、海人は助けてくれる。だが、そこまでのことだ。お互い、深くは干渉しない。海人の住処を探ることもしない。そうして、うまくやってきたのだ。そして、船乗りは陸の者たちに海人のことは明かさないという掟を守る」
誠太郎も馬鹿ではない。嘉兵衛の話はよくわかった。だが、そうですか……と引き下がることもできない。それだけ彼はナミの虜になっていたのだ。
そんな誠太郎の顔を見て、嘉兵衛はつけ加えた。
特に今、海人に関わることは危うい。
海人の存在を知った幕府が動いているというのだ。すでに亡くなっているが、老中・田沼意次が中心になって進められた、幕府による蝦夷地開発も、その裏には海人と関係する怪しい動きがあると。
その嘉兵衛の話を聞いて、誠太郎も驚いた。更に嘉兵衛が言うには、幕府が狙っているのは、海人たちが守る、なにか重要な宝なのだという。
「誠太郎、あらためて告げるそ。北の海の幻のことは忘れ、人としての幸せを求めよ」
嘉兵衛の助言をそのまま呑み込むことはできなかった。だが、相手は海の上で偶然出会った娘、出会おうにも確実な術はなかった。
そして、誠太郎には日本一の廻船商人になるという夢があった。誠太郎が活躍したこの時代はまさに北前船の全盛期、有力な北前船商人たちが綺羅星の如くいた。
まず銭屋五兵衛。
加賀の廻船商人。高田屋嘉兵衛と並ぶ、北前船廻船商人を代表する大商人だ。彼は高田屋嘉兵衛を好敵手として捉えており、ある意味、敵視しているところもあった。出会ったばかりの頃は、嘉兵衛の弟分である誠太郎に対しても厳しく接してきた。だが、彼は誠太郎の熱意にほだされ、やがて一人前の北前船商人として認めてくれるようになった。
そんな五兵衛の紹介で知り合ったのが、彼と同郷の〝からくり師〟大野弁吉だった。弁吉は若い頃から五兵衛の支援を受けており、今の言葉でいえば、大変有能な発明家であり、技術者だった。誠太郎はそんな弁吉の発明に興味を持ち、友情も育んだ。そして弁吉は誠太郎のため、持ち船の星辰丸、そして航海に必要な遠眼鏡、船磁石といった道具の改良に努めてくれた。
廻船商人・庄山清兵衛とも親交を温めた。清兵衛は敦賀の商人であり、屋敷に高燈籠を建てた男としても知られていた。
高田屋嘉兵衛、銭屋五兵衛以外にも誠太郎が目指すべき北前船商人たちは大勢いた。
誠太郎の師である高田屋嘉兵衛、彼を支援した兵庫津の廻船商人・北風荘右衛門。そして酒田を代表する廻船商人・本間光丘。彼らはただの商人の範疇を超え、新田開発や防砂林の植林、商人同士の互助会を興す等、公共のために尽くした者たちだった。誠太郎は彼らと直接会うことは叶わなかったが、彼らの生き様は、北前船商人として生きていくうえでの確かな指針となったのである。
──来る日も来る日も誠太郎は働いた。
自ら船に乗り海に出て荒波を越え、各地で商いを続けた。大阪から始まり、瀬戸内、日本海の各港、そして北は蝦夷の松前、箱館まで、西から東、南から北へ、星辰丸を駆った。
そうしている間に、自然と海人の娘ナミのことは記憶から薄れていった。あの嵐の中の出会い自体、本当にあったことだったのか、夢で見たことなのか、それすらも曖昧になった頃……。
石川に立ち寄った誠太郎は、親友となっていた大野弁吉から思わぬ話を聞いてしまった。
弁吉は不思議な男で、幕府の若手役人とも深い繋がりを持っていた。ずっと前に亡くなったはずの老中・田沼意次が実は生きているという怪しい噂に加え、その意次が狙っているという、海人たちの〝宝〟がなんなのか、それも弁吉の耳に入ってきた。
それは──「時穴」。
そこを通れば、過去や未来、別の時代に行くことができるのだという。
誠太郎はさすがに信じることができなかったが、弁吉は大真面目だった。各地に伝わる時を超えた者たちの逸話はいくらでもある、と熱弁を振るった。
それからしばらく後、星辰丸は深浦の港を出て、津軽海峡を越えようとしていた。なんの前触れもなく、海が荒れた。空は黒雲に包まれ、波は牙を剥いたように鋭くなり、星辰丸の船体を執拗に叩いた。
帆柱が折られる寸前、舳先の向こうに光が現れた。
──ナミ。
顔を確かめるまでもなかった。
波間に透ける光を見ただけでわかった。
やがて、荒れた波間を掻き分けて、美しい顔が覗いた。
宝石のように煌めく長い髪を水面に浮かべ、蒼い瞳で誠太郎のことを見つめている。
──ナミ! ナミ! ナミ!
誠太郎はその名をなんども呼んだ。
そして気づけば、誠太郎はナミの身体を甲板に引き揚げていた。海から出てきたばかりだというのに、不思議なことに、彼女が纏った天女のような薄衣はまるで濡れていなかった。
なにも言わず、誠太郎はただナミを抱きしめた。
「ひと目見た時から……」
鈴を転がすような声でナミは言った。
「あなたのことが好きになりました。あなたに会いたくて、この海をずっと彷徨っていました。また嵐になればいい。そうしたら、またあなたに会うことができる。そう思って、嵐になれ、嵐になれと、ずっと祈っておりました──あなたが好きです」
──俺も! 俺も同じだ!
再び、誠太郎はナミをきつく、きつく抱きしめた。
──ナミの健気さに打たれ、誠太郎はすでに覚悟を決めていた。この先、一生、なにがあってもナミと添い遂げてみせると。
そう、北の海に誓ったのである。
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